良書に巡り合う 「雍正帝」(中公文庫)

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著者・宮崎市定博士は偉大な東洋史学者

作者宮崎市定(みやざきいちさだ)  明治34年(1901年)~平成7年(1999 年)
京都大学・文学部・東洋史教授 のち名誉教授
平成元年・文化功労者に顕彰される
日本歴史学会における東洋史の第一人者です。

「雍正帝」は宮崎博士が50才(1950年)になろうとする時に刊行されました。
清王朝と言えば、雍正帝の父、第4代・康熙帝か息子の第6代・乾隆帝が、いずれも60年余の長い治世でもあり、代表として様々な文献にも登場するが、博士は第5代の雍正帝を独裁政治を確立した絶対君主として描いたのでした。

 西洋人によって描かれた雍正帝(故宮にて発見)

あらすじ1 多数の後継候補の中を皇帝に  

父・康熙帝の61年に亘る長期支配が終焉を告げ、第一王子から第14皇子ほか、男子だけで35人という、たくさんの息子たちのなかから、45才になっていた第4子の雍正帝が第5代皇帝となって即位した。

在位期間は、1722年~1735年の13年間である。父の康熙帝、子の乾隆帝と比べると非常に短期間であるが、宮崎博士はこの雍正帝こそ清朝の土台を築き上げた人物として、高く評価されています。

皇子たちと皇子を取り巻く側近たちの権力闘争のなか、康熙帝の臨終から雍正帝へのバトンタッチにおける過程と、絶対権力者となるまでの兄弟たちへの、凄まじい権謀術数が簡潔な筆致で、解りやすく描かれています。

「天下長河」(康熙帝~大河を統べる王~)「という、中国のとても面白い、長編の連続ドラマを観ました。
康熙帝の治世に、氾濫を繰り返す黄河の壮大な治水工事をテーマとした物語で、ボス政治の親玉である大臣の、明珠や索額図なども繰り返し登場します。
この二人の重臣などの権力争いの経緯も「雍正帝」の冒頭部分に出てきます。

あらすじ2 一族にはキリスト教徒もいた

第3節で、雍正帝とは血のつながりのあるスーヌ(蘇努)一族のキリスト教への帰依と、それに対する雍正帝の対応の話しが記されています。

スーヌ(蘇努)一族とはもともと、清帝国の始祖である太祖皇帝(ヌルハチ)の長男の家系ですが、その長男が父親の太祖と仲たがいをしたため、皇帝の座を継ぐことができなかったが、我こそは本流であるとの誇りを持った一族でした。

その一族が紆余曲折ののち、こぞって敬虔なキリスト教徒となり、僻地に追いやられて困窮な生活を余儀なくされますが、ひるむことなく年月を経て、遂に雍正帝の許諾により、名誉を回復した経緯が詳しく述べられています。

雍正帝もキリスト教を禁令にしていますが、日本の徳川政権と比べると緩やかと言うか、そもそも雍正帝自身は宗教と政治は別物と言う考えを持っていたとしています。

あらすじ3 雍正帝の見事な治世

キリスト教の寓話のあとは、雍正帝の治世の話しで、「天命の自覚」「総督三羽烏」「忠義は民族を超越する」そして最終章の「独裁政治の限界」と章が続きます。

その治世の特色として挙げられているのが、

先ず、平和主義者であったこと。大きな対外戦争は、人民を疲弊させるのみと嫌った。治世中の戦乱は、康熙帝時代からのチベット平定を除き、蒙古西北部のズンガル部と言う部族の反乱の鎮圧ぐらいでした。派手な外征がなかったことも、後世の歴史家が康熙・乾隆時代より軽んじた見方をしているのではとも言われています。

次に、「硃批諭旨(しゅひゆし)」すなわち、地方に派遣された官僚から天子に直接奏摺(個人的にレポートすること)せしめ、それに対して硃批(朱筆の注意書き)して返すると言う、大変な労力を伴う、大臣などの介在を排して徹底した独裁政治をおこなったことです。
これは雍正帝が45才で即位するまで、いわゆる部屋住みの身であったが、その間、宋・元時代の昔からの伝統的なボス政治の実態を客観的に観察しており、大臣を間に入れることなく、親政をおこなうことによりそのボス政治の弊害を取り除こうとしたものです。それと同時に、地方の実情がつぶさに分るというメリットもあります。

「雍正硃批諭旨解題」で各地の官僚への直筆の指南書集を解説

この本は、「雍正帝」(中国の独裁君主)と共に、雍正帝の治世の資料集とも言える「雍正硃批諭旨を解説する文も併せて載せています。

雍正帝の治世の実情は、この資料で明らかになったとも言え、著者が如何にしてこの貴重な資料にめぐり逢えたか、そこから何が読み取れるか、詳しく解説されています。

これら「雍正帝」と、その業績の証と言える「硃批諭旨」をまとめて収録したこの書は、中国の中世から近代史を知るうえでの貴重な一冊と言えます。

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