📅 二季の狭間で思うこと
2025年12月6日(土) ☀️
なんだか今日は、空気が澄んでいるのに、太陽の光がやけに暖かく感じられる一日だった。こんな日こそ、散歩に出かけたくなる。
最近、ふと「二季」という言葉を思い出した。
本来、四季(春・夏・秋・冬)の国である私たちにとって、この言葉は少々異質な響きがある。多くの国では、雨季と乾季、あるいは夏と冬の「二季」で一年が分けられているという。私たちはあまりにも豊かな季節の変化に慣れすぎて、その境目があいまいになりつつあることに、気づかなくなっているのかもしれない。
今年の夏は本当に暑かった。連日の猛暑で、体が溶けそうだった。それが終わると、あっという間に冬の足音が聞こえてきた。
思えば、春と秋はどこへ行ってしまったのだろう?
🍃 春と秋の「余白」
春は、雪解けの後の、生命の息吹を感じる優しい季節。秋は、夏の熱気が去り、紅葉が山を染める静謐な時間。この二つの季節は、単なる「季節」ではなく、夏と冬という本番の間に挟まれた「余白」のように感じていた。
その「余白」が、近年、急速に削られている気がする。
- 夏が異常なまでに長くなり、
- 冬が突然やってくる。
まるで、グラフの線が、ゆっくりとしたカーブを描くのではなく、急な階段のように「ガクン!」と上り下りしているみたいだ。
この現象を、もし「二季」として捉え直すとしたら、私たちの生活はどう変わるのだろう。
🌞 熱と凍、生活を分かつもの
もし日本が「熱季(ネツキ)」と「凍季(トウキ)」の二季になったとしたら…。
熱季には、常にエアコンと日差し対策が必須で、屋外活動は早朝か夕方以降に限られる。凍季には、厚手のコートと暖房器具が手放せず、雪や寒さへの備えが生活の中心になる。
今の私たちが経験している気候変動は、まさにこの「二季化」への道をたどっているのではないだろうか。
なんだか、ちょっと寂しいですよねー
春の優しい雨音を聞きながら新しい生活に胸を膨らませたり、秋の澄んだ空の下でスポーツを楽しんだりする、あの中間的な幸福を失ってしまうのは、とてももったいないことだ。
🌾 季節の「グラデーション」を大切に
四季の国に生きる私たちだからこそ、春の訪れの遅さ、秋の日の短さに、もっと敏感になるべきなのかもしれない。二季を避け、四季の「グラデーション」を守るために、自分にできる小さなことを、改めて考えてみようと思う。
たとえば、暖房の設定温度を少しだけ下げること。たとえば、旬の食材を楽しむこと。
季節の移ろいを肌で感じて、その変化を日記に書き留めること。それ自体が、失われつつある「余白」を大切にする行為なのかもしれない。
次の春の足音が、どうか穏やかでありますように。



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